INICIAR SESIÓN一条が陽菜の名前を出すたび、鷹宮は反射的に「またからかっているのだろう」と受け取る。「修司、いい加減にしろよ。陽菜さんはそういう人じゃない。失礼だ」 言葉こそ咎めるようだったが、その声音はどこまでも穏やかだ。 だから一条は毎回懲りずにからかってしまう。鷹宮のそういう反応が、いかにも面白くて仕方がないのだ。 (この朴念仁、いったいいつになったら気づくんだ。) ここまで分かりやすくしてやっているというのに。 それに、どう見ても陽菜は片想いをしている顔をしている。気づかないほうがおかしい。「凌、お前ほんと鈍すぎるだろ」「……何がだ?」「そんな鈍いくせに、なんで藤野を自分の家に住まわせてるんだよ。どう考えてもおかしいだろ。お前ら、結局どういう関係なんだ?」 一条はいまだに、なぜ陽菜が鷹宮の家にいるのかを知らない。これまで深く追及したことはなかったが、今になって妙に気になって仕方がなくなった。 だが、鷹宮の返答はあまりにも真っ直ぐで、そこに含みは一切感じられなかった。「僕と陽菜さんは、そういう関係じゃない。陽菜さんは……困っていて、僕がちょうど力になれただけだ」「困ってる? 何があったんだ?」「……それは陽菜さんのプライベートだ。それに修司、君も分かっているだろう。うちの母が将来の相手にどれだけ厳しいか。もし軽い気持ちで陽菜さんに頼んだりしたら、逆に彼女を困らせることになる。そんな面倒に巻き込むわけにはいかない」「……ああ」 一条は低く声を漏らした。 鷹宮の口ぶりは、あくまで陽菜と一線を引くものだった。その言い方を聞いた瞬間、ふと彼の過去、破談になった婚約のことが脳裏をよぎる。「凌、お前……まさか、まだあの人のこと――」 はっきりとは言わなかったが、鷹宮はすぐに察した。 ゆっくりと椅子から立ち上がり、背後のガラス窓へ視線を向ける。そこには、繁華な街並みが広がっていた。夜になれば、きらめく光に満ちる景色だ。 かつて、その場所に彼女と並んで立ったことがある。 会社が最も苦しかった時期、二人でこの夜景を見上げた記憶。 それ以来、窓の前に立つたび、どうしてもその面影がよぎるようになってしまった。「修司……恋って、どれくらい続くものだと思う?」 振り返って一条を見る。 だが答えを待つことなく、静かに言葉を重ねた。「僕は……まだ彼
「修司、どうした……?」 鷹宮は一瞬、言葉を失った。記憶をたどっても、一条がここまで特定の女性に気を配る姿は初めてだった。鈍い自覚のある彼でさえ、どこか違和感を覚えずにはいられない。 訝しげに見つめる鷹宮に対し、一条は再びソファへ身を沈め、先ほどと同じく気だるく寛いだ姿勢に戻った。「なんだよ?」「……なんだか、陽菜さんのこと、やけに気にかけてるように見える」「昔の同級生だからな。俺ってさ、性格いいだろ? 久しぶりに会った相手を放っておく趣味はないんだよ」「放っておくって……」 鷹宮は呆れたように肩をすくめ、小さく笑った。 けれど、言われてみれば間違ってはいないとも思う。鷹宮の目には、一条は口こそ悪いが、根は優しい人間に映っていた。「わかった。陽菜さんは僕が連れて行くよ……修司は? 一緒に来ないのか?」「俺は……遠慮しとく。方向も違うしな」「方向が違うってことはないだろ。うちから君の家、同じ方角じゃないか」 鷹宮はすぐに言い返したが、それ以上は強く引き止めなかった。友人が気乗りしないなら無理に誘うつもりもない。 こうして当日の段取りは、どこかあっさりと決まった。 話がまとまり、鷹宮が次の仕事に取りかかろうとしたその時だった。 机の上に整然と並べられていた別の書類へ手を伸ばした瞬間、不意にスマートフォンの着信音が鳴り響く。 画面を一瞥すると、また母親からだった。 短く息を吐いたあと、鷹宮はどこか疲れを滲ませながら通話に出る。予想通り、聞こえてきたのはいつもの言葉だった。「修司、いつになったら帰ってくるの? この前もはっきりしなかったけれど、そんなに仕事が忙しいの?」「母さん、今は――」「お父さんが会社をやっていた頃はね、あなたみたいに仕事ばかりじゃなかったわよ。毎日クラブに顔を出して楽しんでいたのに。それなのにあなたときたら、いつ連絡しても仕事、仕事って……」「……」 鷹宮は一条に対して信頼を置いているため、電話を受ける際も特に席を外したりはしない。 防音の行き届いたオフィスには余計な雑音がなく、母親の一方的で強い口調は、一条の耳にもかすかに届いていた。 一条の記憶の中で、彼女は昔からずっと強い人だった。何度も鷹宮の選択に口を出してきたが、当の本人はそれに逆らうことなく、言われるままに従ってきた。 反抗期らしいものもな
一条が部屋へ戻ると、そこには陽菜ひとりしかおらず、鷹宮の姿はなかった。「凌は?」「鷹宮さんなら、お電話を受けに行かれました」 陽菜がそう説明する。 一条は、自分が席を外せばあの二人に少しは二人きりの時間ができるだろうと思っていた。 だが、彼が出て行って間もなく、鷹宮のもとへ母親から電話がかかってきたらしい。陽菜に「ごめん」とひと言残して、そのまま外へ出て行ったのだという。 今朝も鷹宮の母親は結婚の話を持ち出していた。おそらく今夜の電話も、同じ用件なのだろう。 しかも、一条は相手が鷹宮の母親だと聞いた瞬間、すべてを察したように目を細めていた。ここ最近、鷹宮が結婚を急かされていることは、一条にとってもすでに知れ渡っている話だった。 もしこの場にいるのが鷹宮だったなら、陽菜はきっと落ち着かず、恥ずかしさでどうにかなっていたに違いない。 けれど、相手が一条だと、不思議とそこまで強い気まずさはない。 最近、一条と二人きりになることが何度もあったせいだろうか。陽菜は少しずつ、一条と向き合うことに慣れ始めていた。「一条くん……」「ん?」 一条も何か話そうかと考えていたところだったらしい。だが先に口を開いたのは陽菜だった。 彼は眉を軽く上げ、面白そうに陽菜を見る。 彼女の頬はまだほんのり赤い。もともと色白だから、少しの変化でもすぐ顔に出てしまうのだ。「今日は……一条くんに、きちんとお礼を言わなきゃって思って。まだちゃんと伝えられていなかった気がして……いろいろしてくれて、本当にありがとうございます」「……なんだ、そんなことか」 一条は一瞬きょとんとした。 陽菜が本気で自分に礼を言っているのだと分かると、口元に浮かべていた戯れめいた笑みを少し引っ込める。崩していた座り方まで、なぜかきちんと整えた。「別に、お礼を言ってもらいたくてやったわけじゃないし……」 そう言いながら、一条のほうがどこか落ち着かなくなる。 そもそも彼がこの集まりを整えた大きな理由は、陽菜のために機会を作ることではなく、単に面白いものを見たかったからだ。表向きにはそれらしいことを言っていても、本心はまるで違う。 けれど、そんな事情はともかくとして、こうして陽菜に礼を言われるのは悪くなかった。 ついさっきまで、鬱陶しい月乃と顔を合わせていたせいもあるのだろう。今、自分
彼女のその言葉、その真意は、一条に、この人生で最も憎んできたある人物の名を思い起こさせた。 あまりにも似ている。 人間性を踏みにじる、あの身勝手さと利己主義。そして何より許せなかったのは、月乃が、それを自分に向けて口にしたという事実だった。 まるで、女の身体を利用して利益を得るような、最低な男になれと、そう誘っているかのように。 目の前の女の存在が、一条の吐き気をいっそう強める。 それなのに、月乃はひどく明るい笑みを浮かべていた。まるで、一条の心を半分は掌握したかのような、妙な自信に満ちた表情で。「……まだ分かっていないようだな。俺の考えも、言いたいことも。金城。お前が俺を調べるなら、俺も同じことをする」 淡々とした声のまま、視線だけが冷える。「お前が今持っているもの、すべて壊されたくないなら、これ以上、俺に近づくな」 それだけ言い捨てて、一条は足早にその場を去った。月乃と一秒でも長く同じ空間にいること自体が、彼にとっては耐え難い苦痛だった。 庭先にふいに風が吹き抜ける。月乃の長いスカートと黒髪が、ふわりと揺れた。 彼女はしばらくのあいだ、一条の去っていった方向をじっと見つめていたが、やがてその笑みを消し、眉を寄せて、苛立たしげに小さくため息をつく。「……ほんと、扱いづらい男」 だが、個室へ戻ったときには、まるで別人のような愛らしい笑顔を浮かべていた。 中にいた中年の男は、無表情で電子タバコを吸っていたが、月乃の姿を認めるや否や、顔にわかりやすい笑みを浮かべる。「月乃ちゃん、ずいぶん待たせるじゃないか」「ごめんなさい、部長~。さっき廊下で、昔の知り合いにばったり会っちゃって」 部長と呼ばれた男は、その言葉にはさほど興味を示さず、視線は月乃の胸元に釘付けになっていた。 月乃が隣に腰を下ろすと同時に、男は彼女を乱暴に引き寄せ、自分の腕の中へと閉じ込める。そして、卓上に用意されていた、なみなみと注がれた日本酒の杯を手に取り、月乃の唇へと押し当てた。「待たせた罰だ。おとなしく一杯飲め」 その意図が酒そのものではないことなど、月乃もよくわかっている。 月乃は逆らうことなく、男に口移しで酒を飲まされるのを受け入れた。そして、男の機嫌が上がり、まだ完全に酔いきっていない隙を見計らって、すぐさま本題を切り出す。「ねえ、部長~。月乃、ど
月乃にとって、最も誇りに思い、そして確実に通用する切り札は自分の身体だった。 これまで彼女は、そのやり方で何度も望むものを手に入れてきた。 だからこそ、一条もまた、他の男たちと同じように浅はかな存在にすぎないと、どこかで思い込んでいた。 一条の持つ資源、彼の会社、そして家としての価値――それらは確かに特別だ。 だが、男として見れば、結局は大差ない。 彼女にとっては、どれも同じ“価値のある男”というだけだった。 彼に近づき、その情報を手に入れるために、相応の労力も費やしてきた。結局のところ、彼女が一条に対して抱いているのは感情ではない。 他の“使える男”と、何も変わらない。 自尊心が高く、好き勝手で、傲慢。典型的な金持ちの御曹司。 月乃はこれまでにも、そうした男たちを何人も落としてきた。 最初は皆、一条のように彼女を拒み、軽蔑する。けれど、一度手に入れてしまえば、最後に執着して離れられなくなるのは、決まって男のほうだった。 本気で感情さえ差し出さなければ、体なんて、いくらでも使い回せる安価な取引材料にすぎない。 月乃の中では、一条は最初に何度か拒絶するはずだった。 そして実際、その通りになった。 彼女が「一度くらい寝てみない?」と口にした瞬間、一条の目に浮かんだ嫌悪は、露骨なほどに深まった。 まるで視界に入れたくもないものを見てしまったかのように、その視線は一瞬で冷えきり、わずかな温度すら失っていく。 そして、ゴミ箱の底に沈んだ、触れる価値すらない汚物を見下ろすような、徹底的に切り捨てる視線だった。「……狂ってるな」 言いたいことは他にもあったのかもしれない。だが、それすら時間の無駄だと判断したのだろう。 一条はただ一言、吐き捨てるように言い残すと、振り返ることもなく、そのまま会計を済ませて店を後にした。 月乃はほんの少しも傷ついた様子を見せなかった。何事もなかったかのように、再び若い男たちの輪の中心へと戻っていく。 彼らはすべて、彼女がホストクラブで金を払って呼び寄せた男たちだった。 男から受けたものは、別の男で取り返す。 それが月乃が成長の中で身につけた、ひとつのやり方だった。 バーでの一件の翌日。 一条は、自分が本格的に月乃に付きまとわれているのだと悟った。 たった一日のうちに、生活圏や会社の近くで、五度
扉の外、暗がりに潜む人影に気づいたあと、一条は数秒ほど沈黙した。 そして、なおも仕事の話を続けようとしていた鷹宮の言葉をさえぎるように、静かに立ち上がる。「少し、席を外す。トイレに」「わかった」 鷹宮も陽菜も、特に疑問を抱くことなく頷いた。 一条はいつもと変わらぬ様子で、ゆっくりと扉のほうへ歩いていく。その背中には、わずかな違和感すら滲ませないまま。 部屋を出ると同時に、扉をぴたりと閉めた。隙間ひとつ残さず、何事もなかったかのように。 予想していた通り、扉の外にはすでに人影はなかった。 廊下はしんと静まり返っている。 この料亭は、政治家や実業家の利用も多いという性質上、各個室には簡易的な防音が施され、部屋同士の間隔も広く取られている。 さらに建物の構造そのものも複雑だ。一条が中庭へと足を進めても、他の客や仲居と顔を合わせることはなかった。 ただし、背後にわざと距離を保ちながらついてくる、ひとつの気配を除けば。「出てこい」 一条の声音は冷えきっていて、薄暗い庭の光と相まって、その存在をいっそう陰の中に沈ませていた。 もともと黒のシャツに黒のスラックスという装いだったこともあり、彼の姿はほとんど夜に溶け込んでいる。 ただ、月明かりと遠くの行灯の灯りに照らされて、すらりとした体の輪郭だけがかろうじて浮かび上がる。 その曖昧な光の中で、彼の姿はどこか現実感を欠いた、美しくも冷たい気配を帯びていた。「……」 少し離れた場所にいる相手は、しばらく動かなかった。見惚れていたのか、それとも、あえて姿を見せずにいたのか。 やがて、一条が露骨に苛立ちを滲ませて舌打ちすると、その人影はようやく、ゆっくりと歩み寄ってくる。「やだ、偶然ね。一条くん。こんなところで会うなんて」 現れたのは、月乃だった。 溶けるように甘い声音。 暗がりの中でわずかに見開かれた瞳が、遠慮もなく一条を捉えている。 次の瞬間、まるで計算していたかのように、彼の目前で足をもつらせた。「きゃ……っ」 倒れかけた身体を支えようと、月乃は迷いなく一条の腕へと手を伸ばす。 その動きはあまりにも自然で、最初から触れることを前提にしていたかのようだった。 だが、その瞬間。 一条は露骨なほどに大きく身を引き、触れられることを拒む。わずかな間さえ許さず、その距離を一気に断ち